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かたびっこ その4
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1997-06-07
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22KB
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225 lines
「何か、話して下さい」
僕の妄想はそんな彼女の言葉で中断された。元の世界に戻る。
「今度は君が話す番だ」
それは僕の軽い牽制。
「私には話すことが何もありませんわ」
僕は質問を探す。ヒントのないクロスワードを埋めるように。
「その猫のことは、どうだい?」
僕は彼女の膝でぬいぐるみのようになっている猫に視線を移した。猫のことなら彼女も喋ってくれるだろう。きっと。
「小さな、まだ子猫だった時に、路地で何匹かの猫と段ボールに入れられているのを拾ったのが最初の出会いでした。それから、私、マンション暮しだから、毎日、ミルクを持っていきました。通いペット。でもまだその時は足は悪くありませんでした。この列車に乗って、会ったら、足を引き摺っていました。それでおしまいよ、話は」
「何処に住んでいるんだい?」
「ずっと遠く」
「ずっと遠くって、どのくらい?」
「あなたが乗ってきた場所よりずっと遠くよ」
「いつ、乗ってきたんだい?」
「ずっと前」
「ずっと前って、どのくらい?」
「あなたが乗って来るよりずっと前」
僕はまた質問を諦めた。
彼女は本当の話をしているのだろうか?彼女は何かを隠している。そんな疑いが波となって押し寄せた。彼女は何か大切なことを知っていて、それを隠すために僕をランプの煙に巻こうとしているのじゃないか?
「面白くない話でしょう?」
僕が質問を止めると、彼女は僕の心の疑いを吹き消すかのように念を押した。
「だから、あなたが話をして下さい。私、話をするよりも話を聞くほうが好きなんです」
僕は仕方なく頷いた。
本当は僕はこれからこの列車が何処に行くのか知りたかった。喉から手どころか足が出るくらい。もし知っているなら正直に話して欲しかった。だが、無理強いしてまでそれを引き出そうとは思わなかった。彼女には彼女なりの話さない理由があるのだろう。僕は考えた。色々な話をしていくうちに彼女が話してくれるきっかけとなる鍵を引き出すことが出来るかもしれないと。それに一方通行にせよ、彼女と話すのは嫌ではなかった。
「それじゃ、夢の続きの見方の話をしよう」
「面白そう」
「夢の続きを見たいと思ったことはない?」
「あまり夢を見る方ではありませんわ。けれど、思ったことはあります」
「それじゃ、その夢の続きの見方を教えて上げよう。いや、その前に順序よく気付いたきっかけから話すよ。
二、三年前のことだけど、眠れない日が続いたことがあったんだ。原因は不明。夜になってベッドに潜り込んでも、目が冴えて、どちらかというと興奮気味なくらいで、とにかく眠れなかったんだ。
一日目の夜は羊の数なんか数えて悠長なものだった。でも二日目になるとさすがにこれはおかしいと思って、必死で眠りに付こうと考えた。一生懸命にね。三日目にはもう真剣だったよ。今まで当たり前だった眠りがないんだから。僕は一生眠れないんじゃないかって不安にさえなった。
三日目の夜には、僕の頭の中に眠り以外の関係のないことがなくなった。頭の中は眠りだけ。最初はあまり考えないほうがいいだろうと思っていたけれど、もう駄目だった。
その夜、僕は今まで僕が見てきた夢を思い出そうとした。思い出せるだけの数をね。開き直ったんだ。全部で二六七個の夢を思い出せた。一九年間としては少ないとも言えるし、多いとも言える数だ。断片的で映像にも出来ないようなものからひとつひとつの台詞や色まで明確な長編小説みたいなものまで。
いちばん小さな頃のは六歳の時、見た夢だったよ。なわとびを繋げて作った汽車に何人かの、もう名前も思い出せないような幼稚園時代の友達と、昔住んでいた家の裏にある路地で汽車遊びをしているんだ。運転手と車掌とお客にそれぞれがなって、次は何処の駅だ、と六歳の僕が叫んでいる白黒の夢だ。それ以上前のは思い出せなかった。六歳より前の僕はまるで他人みたいな感じがするな。
そして僕は四日目の昼にやっと眠れた。ぜんまいの切れたからくり人形みたいにね。一日と半分、眠り続けた。
それから、僕は昔見た夢の続きを見るようになった。正確に言うと、それは昔見た夢の前の話だったり、続きだったり、語り部が変わったり、と多種多様な過去の夢の再編集だったんだけど。
だから、もし君にもう一度見たい夢があるなら、眠る前に何度も見たい夢を反芻すればいい。夢は現実の合わせ鏡だろ。だから、常日頃はうたたねしている意識下に、般若信教を写経するみたいに心の中のスクリーンに見たい夢を上映するんだ。一度やってごらん。続きが見れるかどうか保障はないけれど、その夢に関することは見られるはずさ」
僕はそこで一度、言葉を閉じた。彼女の反応を窺ってみる。でも、彼女はただじっと僕を見ているだけだ。
僕はまた、話し始めた。
「それ以来、僕は夢に興味を抱いた。高校生の時に十分の一ほど読んで放り出し断念したフロイトの本を最後まで読み通したり、ユングやその他の夢に関する書物を何冊か読んだ。高校生の時と違いすらすら読めたよ。高校生の時は意気がってインテリぶって、読もうという嫌らしさが先頭切っていたけれど、今度はリアルな現実として読めた。
誤解しちゃいけないから言っておくけど、僕の大学の専攻は応用化学なんだ。心理学や夢判断、大脳生理学や精神分析とは全く縁のない分野さ。ベンゼン環やら高分子化合物やら、お経のように続く元素記号の羅列とにらめっこ。薬品の染みのついた白衣を着て一日中実験室に閉じ篭もっている時もある。今では化学に興味が全然ない。もともと高校生の時に勘違いしたのがそもそもの間違いさ。学校の成績が良かったからって理科系を選んだのがね。
どんなものでもそうだけど、表面だけ上手く美味しいところだけ捕らえるとロマンって奴が見えるんだけど、深く探求し始めると消えてしまう。市民スポーツは誰でも楽しめるけれど、競技スポーツはある一部の人しか楽しめないのと同じことさ。
こんな話、面白くないかな」
彼女は首を振った。
僕の中で質問が閃いた。
「君がさっきもう一度見たいって言ってた夢はどんな夢だい?」
「夢判断してくれますの?」
「いや、夢判断なんてことは個人個人が考えるべきことなんだ。人にやってもらうことじゃない。他人にやってもらうような人は中途半端に神を信じている人ぐらいなものさ。完全に神の存在を疑わない人や、全く信じていない人にはカウンセリングは必要ないよ」
「あなたは?」
「僕?僕は信じていない。宗教というのは全然信じていない。でも、宗教の言う神のような絶対的な流れを司る存在というか、秩序の基盤を持っている何かは存在してると思っている。救世主じゃなく大きな流れの傍観者だ。それが神と呼ばれるものかどうかは断言できないけれど」
「大きな流れは存在すると信じてますのね?」
「そう。信じている」
彼女はゆっくりと頷き、視線をまた一度遠くにやった後、僕に戻した。
「それで君の夢は?」
「そう、もう一度見たいと思ったことは覚えています。けれど、どんな夢だったかは思い出せませんわ」
「さっき言ってたことは夢じゃないのかい?」
彼女は首を傾げた。
「僕と初めてここであった時、言ってたこと」
彼女は猫に目をやった。
「あれは現実とも、夢とも、蜃気楼のような幻ともいえるものですわ」
「よく分からないな ・・・・・・ 」
「私にもよく分かりませんもの。現実の色した非現実。非現実の色した現実」
そう言うと、彼女はまた猫の毛をいじり始めた。
「まるで今の僕みたいだな」
僕の台詞に彼女は全く無反応で、僕の台詞は宙ぶらりんになった。触れてはいけない箇所を触れたようだ。僕は、僕等の会話がまるでルールの定められた言葉遊びみたいな気がしてきた。ゲームだ。そして僕はルール違反に近いことをして、注意を受けた。一回休み。罰則の静寂。
僕は物語の岐路を曲げた。
「じゃ、さっきの話の続きをするよ。
実は二六五個目の夢がある。それは思い出せた中で一番古い夢よりも昔なんだ。でも、それが夢かどうかは分からない。自分でも夢か現実か自信がないんだ。たぶん現実のことだったとは思うんだけどね。
それは幼稚園の時に描いた絵。何を描いたのかさえ思い出せないんだけど、小さい頃ってみんな、一種の芸術家だろ。押さえる栓のない壊れた噴水みたいにクレヨンやクレパスで落書するだろう。その絵もそんな時に描いた絵だったと思うんだ。不釣り合いな大脳を持った社会生活においては未完成の、蛋白質で出来た幼児時代から人間になる狭間の。本当は最も僕らしい時期に描かれた芸術作品。僕の最高傑作。全く、何を、どんな風に、何で描いたのか、覚えていないんだけど、イメージだけは今も僕のなかに鮮明に残っている。もちろん君には説明できないよ。誰にもね。
不思議だろ。
君は幾つの時まで思い出せる?」
「さあ、どうでしょう ・・・・・・ 。ゆっくりとひとつひとつ思い出していけば何処まで行くやら」
「君なら、生まれた瞬間まで覚えていそうな気がするな」 彼女は僕の冗談には笑わなかった。その代わり、何か小声で言った。
「 ・・・・・・ 」
あまりに小さな声で僕にはよく聞き取れなかった。何かの呪文のように聞こえた。僕はもう一度言ってくれるようにと、彼女の顔を覗き込み窺うような表情で返した。
「ハジメニヒカリアリキ」
彼女はもう一度呪文を唱えた。僕の中でその言葉の羅列がこだました。そして何度か中枢の壁に当たりラリーを繰り返すうちに、大脳は的確な単語を提起してきた。
始めに光り、在りき。
「私、こう思うのです。夢もその絵のイメージも宇宙誕生以前の虚数世界にしかないもので、原生生物が海で誕生した名残として母胎の羊水があるように、言葉以前の<イメージ>という言葉で一括りされる代物は宇宙誕生以前の名残ではないのでしょうか ・・・・・・ 。
その昔、私達の認識し得る世界が生まれる前、十の次元空間や四つの力がまだなかった頃には、それらの<イメージ>と呼ばれるもの達が浮遊していたのではないかと、考えるのです。
そこには、磁場も、時間もなく、あらゆる物理学の法則は意味を持ちません。存在や無、静止や激動もなく、言葉で規定されるものは皆無です。
それは私達の遠い祖先です。もし、時間という軸を挿入するならそれは途方もなく果てしない彼方です。それを細胞の中の遺伝子が覚えているのです」
僕の中で再び、彼女を最初見た時に沸いた畏敬や畏怖にも似た感情が蘇った。いや、さっきよりも巨大なものだ。詰まらない話でようやく近付けていた僕と彼女の距離が遠く離れていく。僕を囲む殻はまた厚みを増した。
「誰の説だい。まるで外の世界から僕等を眺めているような言い方だね」
そう言うと、彼女は微笑んだ。
少女の微笑み。何処かで見たことがある。何処でだ? 突如、僕の眼前に情景が浮かび上がった。
僕の座っている椅子、僕のいる場所に一本の河川が流れている。河川の幅は広く、流れは緩やかだ。僕は水の流れに腰まで浸かり、彼女はその流れの外側、岸辺に佇んでいる。そして、笑っている。手を差し伸べるわけでも憐れむでもなく、ただ微笑んでいる。
それは幻視?幻覚?夢幻様体験?既視感?
僕は圧倒的な無力を身体の隅々に感じた。現実では感じたことのない、味わったことのない、心地よさを伴った脱力感だ。
いや、いつか、何処かで同じような感触を受けたような気がする。彼女と会って、似たような話をして、同じような脱力感を。
日頃使わない古の大脳皮質で、回路を塞がれた封印記憶が疼いていた。
僕は懺悔する罪人のように切り出した。
「そんな話の後にこんな話をしてもいいかな ・・・・・・ 。僕のちっぽけな願望なんだ。笑われそうなくらいの ・・・・・・ 」
彼女はスローモーションの動作で柔らかく頷いた。
猫になりたかったんだ。
「何故ですの?」
彼女の声が耳でよく響く。心臓を、大脳を、あらゆる細胞をやさしく愛撫するように。
「猫の方が気楽だと思ったから」
「でも、猫も大変だと思いますわ」
そうかもしれないと素直に思った。そこまでは考えていなかったかもしれない。僕の願望は結局、逃避だったんだ。不純な逃避。
彼女は質問を続けた。
「それは過去形?今でもなりたいと?」
「心の奥底では、そう願っているかもしれない」
「どうやったら、猫になれると思ったのです?」
「人間になりたがっている猫を探す ・・・・・・ 」
「それで?」
「交換してもらう」
「そんな猫いるかしら」
「分からない」
僕は希望的観測を多く含んだ言い方で、真面目に答えた。もしかしたら、何処かに人間になりたいと思っている猫がいるかもしれないじゃないか。不合格の印を押されて『人間になれば良かった ・・・・・・ 人間になれば ・・・・・・ 人間になっていたら』と軒下で鳴いている猫がいるかもしれない。生れ乍らに罪を背負い、いつも鳴いている猫。びくびくしながら、でも猫になりたい人間を探すために街を歩いている猫が。
「もし、もしものことよ。そんな猫がいたとして交換してもらえたら、何をするつもり?」
彼女は僕の目を覗き込んだ。
「自然のままに生きたい」
「自然のまま?」
「そう、欲求のままに街を走りぬけ、ごみ箱を漁り ・・・・・・ そして死んでいく」
それは今の僕が立たされている現実とは裏返しの常識世界。満たされぬ願望。未知の世界への憧れ。他人の持っている玩具を欲しがる幼児。
「でも、それはあなたが言っているよりは気楽じゃないことですわ。それでも人間として暮らすより気楽だと思います?」
「そう思ってる」
僕はきっぱりと言い切った。そして、言い切ってしまう自分に少し驚いた。
彼女の質問は終わった。彼女は何も言わなかった。もう、何も訊ねなかった。
幾許かの時が経ち、赤味さす彼女の頬に元の白色が戻った頃、彼女は身体からオーラを放出し始めた。それは次代を継ぐための生殖を終えた蜻蛉のようだった。蜻蛉は役目を成すと羽に輝きを失い、仄かな燈を消し、水面にその屍を横たえるのだ。彼女を覆っていたオーラは明らかにその効力を失いつつあった。
「さっき言っていた<イメージ>の話のことだけど ・・・・・・ 細胞の遺伝子が憶えているって言ってたよね」
彼女は力なく頷く。
「それはいつ思い出すんだい?」
「いつも、いつでも、すこしずつ ・・・・・・ 」
彼女の声が前にも増して細く小さくなっている。
「僕等は毎日それを思い出しているってことかい?」
「そう ・・・・・・ でも ・・・・・・ 」
「でも?」
「気が付かない ・・・・・・ 明るいから、みんな気が付きません ・・・・・・ でも ・・・・・・ 」
今度は僕は問わなかった。
「最後には思い出します ・・・・・・ 全てを ・・・・・・ 遺伝子たちが夢を見るのです ・・・・・・ 」
みゃーう。
彼女は猫の眠りを妨げ、毛糸玉を扱うように胸の前にそっと抱き寄せた。瞳の矛先を天井に、いや、もっと遠く彼方、天上に向け、彼女はぽつりと呟く。
「止まります」
僕は外を見た。何も変わっていない。風景も、列車の速度も。
彼女は知っている。いや、知っていた。最初からずっと。ここが何処なのか。この列車が、僕が、何処へ行くのか。僕は確信した。
「もうすぐ、終点ですわ」
彼女は最後の力を降り絞るようにもう一度、今度ははっきりと僕に向かって言った。
デジャヴ、もしくはそれに準ずる記憶。
玉座に腰を降ろした創造主の前、僕はかたびっこの白い猫と一緒に跪いている。満天は光の泡沫。床は白い雲。
創造主は言う。
「まだ猫になりたいか?」
僕はとっさに即答できず、言葉を探し、迷う。未練があるんだ。中途半端な知性と中途半端な野性を持った人間って奴に。
「どうだね?」
創造主は回答を急かした。
「はい」
僕は未知なる世界の方に回答を託した。
創造主は一部の隙もない威厳ある仕草で頷く。
「ここに人間になりたがっておる猫がいる。君とは逆だ。需要と供給のバランスからいくと好都合な二人だ。
では、もう一度、訊ねる」
僕の脊髄に稲妻のようなものが走り、背筋がピンと伸びた。
「汝は如何なる時も自らを偽らず、と誓えるか?」
僕は大きな声ではっきりと叫んだ。
「我は如何なる時も自らを偽らず、と誓います」
ひとつ間を置き、創造主は僕の半分取れかかった仮面を指差した。
「不合格」
みゃーう。
列車の速度が落ちてきた。一定の間隔でブレーキを掛けている。振動が足や尻を通じて伝わってくる。永遠に続くかと思われた等速直線運動は摩擦力を仲間にし、加速度を減らした。トンネルを過ぎる時に耳を鳴らすようなヘルツの高い音波が身体を駆け抜ける。
駅が見えた。駅には誰もいない。よく見ると前と同じ駅のようだ。寸分違わない双子の兄弟のような造り。蛍光灯。木製のベンチ。誰もいないプラットフォーム。
列車が最後のブレーキレバーを引き、止まった。完全な静止状態。漏れた蒸気が蛍光灯の光にあたり、外は霧雨が降っているかのように見える。本当に着いた。
彼女が席を立った。僕なんか目に入っていない様子で入り口に向かう。猫は彼女の後を付いた。
ドアが開いた。まず、彼女が、そして次に猫が、二人とも慣れた足取りで列車を後にした。蒸気の水滴が付いた窓から、彼女と猫の後ろ姿が見える。彼女は霧の中を彷徨う夢遊病者、猫はそれを追う執事のように、改札に向かった。彼女と猫の姿がだんだん小さくなる。振り向きもしない。改札を出て少し進んだところで二人の姿は漆黒の暗闇という化物の胃袋に収まった。
僕ひとりが残された。
僕は降りるべきか、そのまま列車に乗っているべきか、とっさに判断できず二人の行方を目で追っていた。声を掛け、ここは何処、と聞けば全ては簡単なことだった。だが、いざとなるとためらいの壁が僕の意志を滞らせた。言葉はひとつも出てこなかった。はっきりさせることが恐くなったのだ。とても。
よく見れば、やはりこの駅はさっき僕がいた駅だった。どのくらいの時間が経ったのかは分からないが、僕は大きな回転木馬に取り込まれていたのだ。この駅に始まりこの駅で終わる巨大なループ。
結局、僕は席を立ち、列車を降りた。
車内の暖かさに慣れてしまったせいか、外は肌寒く感じられた。蛍光灯ではさっきと同じものかどうか区別も付かない蛾が仄かな明るさを求めて公転運動をしていた。
僕はジャケットのポケットから煙草を取り出した。最後の一本。ライターで火を付けると、空箱を開きっぱなしの列車の中に放り込んだ。僕が列車の中にいたことの、この世界にいたことの証しとして残すのだ。僕は煙草を吸う行為に集中した。
辺りでは列車の熱部が冷却され金属自身が縮こまる音が、ミクロ単位の鈴が鳴るような音を立てていた。目に見えない小さな精霊たちが一斉にそれを鳴らしていた。
僕は煙草を根元ぎりぎりまで吸うと、コンクリの上で揉み消した。ひとつ大きく息を吸い、ゆっくりと長く息を吐く。
一体、この緊張感は何なんだ。この昂ぶりは ・・・・・・ 。 僕は彼女が消えた方向に歩き始めた。改札には駅員はいなかった。影もない。駅を出たところにはターミナルも売店も旅館の案内も交番もなかった。地道の一本道が真っすぐ続いているだけで、両側は漆黒の闇の壁。大地と空の境目もはっきりしない。一本道も百メートルぐらいまでは見えているが、それより先は闇に飲み込まれている。
闇の彼方で足音が聞こえた。彼女か?それとも、空耳?大勢の足跡が小波となって聞こえる。僕はそれを道標に選んだ。駅から遠ざかるにつれて目は暗闇に慣れていったが、ルクスは落ちた。白んだ世界から黒い世界へ。五十歩ほど進むと五感のひとつ、視覚が危うくなってきた。僕は一度そこで立ち止まった。
その瞬間、僕に去来したのは今日一日の出来事だった。現在から過去へ、それは時間軸を逆に飛来した。彼女と猫の後ろ姿、列車の中での僕と彼女の会話、彼女に感じた得体の知れない畏怖と畏敬、夢、列車、かたびっこの猫、記憶もなく佇む僕 ・・・・・・ 。勢いにのって、その先も思い出せそうな気がした。その先の空白。僕は全神経を一点に集中させた。目を閉じ、集中力を高め、空白の記憶を覆っている壁を崩していく。壁が薄くなりもう少しで貫通するという時に、偏頭痛が僕の頭を襲い、集中力が逃げた。
何故、僕が思い出したいことを僕が邪魔するんだい?思い出そうと必死で足掻く僕。留まらせる僕。どっちが本当の僕なんだい?
僕は目を開けた。白と黒の世界。暗闇と白日の空間。いずれにしても僕はひとりぼっちだった。この場所に存在するのは僕ひとりっきりだ。
帰りたい。家に、元いた場所に。どんなに居心地の悪い場所であろうとも、僕が僕自身である慣れた場所に帰りたい。
この場所は僕の場所じゃないんだ。
泣きたかった。迷子の少年のようにその場にうずくまり、誰かが優しい手で肩を叩いてくれるまで、泣いていたかった。
でも僕はそうするには不必要に大人という奴になり過ぎていた。感情を素直に表す術を忘れてしまっていた。
夢を見ているのだ。彼女の言う通り。僕の数えきれないくらいの細胞にひとつずつある核の中、紐状の染色体、遺伝子、DNA。過去の記憶たちが未来の夢を見ているのだ。
そう、思いたかった。いつかは醒める夢なんだ、と。醒めれば元に戻るのだ、と。
僕は白の世界に浮かぶ駅のホノグラムにさよならを言い、道をまた歩きだした。
ライターを付け、熱くなると消し、僕は進んだ。道はひたすら真っすぐに続いていた。ライターを付けている間は炎を中心とする半径五十センチメートルの球状だけ視界が生まれ、消えるとゼロになった。気のせいか炎の見せる光が暗黒に吸い込まれているような気がした。
ズック靴の下で音たてる砂利も心なしか小さいようだ。視覚だけでなく聴覚や触覚までもが漆黒の闇に影響を受けている。
進むにつれ、空間に含まれている現実という名の気体が希薄に、真空に近くなっていく。 いつのまにか決心したわけでもないのに僕は後を振り返ることを止めた。
どのくらい歩いていただろう。膝や腿の筋肉に疲れを感じ始めていたから相当の距離を黙々と歩いていたと思う。僕は出口を求めて歩いているはずだった。なのに、歩いているのは僕の意志ではなく誰かに歩かされているような感じがした。誰かの願望が僕を歩かせていた。でも決して嫌じゃない。無理矢理じゃない。僕はその単調な行為に見惚れていた。歩くという単調な行為自身に満足していた。僕は誰かの願望の忠実な家来になった。願望のおとなしい捕虜になった。
いつしか僕はライターを付けずに歩いていた。
光の点が見えた時も僕は別段、驚きもしなかったし、小躍りもしなかった。僕は裸でいるような気分だった。衣服も下着も靴もなく、僕を外界から隔てているものはゼロだ。僕は、僕がいるこの世界とひとつになっていたのだ。光の点は僕の前方の彼方にあった。
歩くたびに光の点は原子核の大きさ程から分子の大きさになり、道は狭くなった。両脇を暗黒の壁が近付いていた。光の点からは放射状の光の粒子が漏れ、壁沿いに光の筋を映していた。それでも光の点と僕の距離を計ることは出来なかった。遠近感が微妙にくいちがい、ずれていた。
さらに近付き、塩の結晶ぐらいの大きさになった時、辺りに風が吹き始めた。風は前方の光の点に向かって吹いていた。一歩進むごとに風は風力を確実に増している。いや、これは空気だけじゃなく磁気や重力さえも吸い込むような風だ。風は冷たくも熱くもなく、ただ吹いていた。
僕の歩く速度が速くなった。これがこの世界の、この漆黒の闇の原因のようだ。全てを飲み込む光の点。速度の増した僕の身体はやがて地面を離れた。足が宙に浮く。とっかかりを失った僕の身体は周りの空気と同じように光の点に向かって飛んだ。音速を超え、光速を超え。僕は光の飽和に飛び込んだ。
みゃーう。
どのくらいの時間が経ったのだろう?僕は気を失っていたようだ。さっきまで僕が味わっていた不安定な意識ではなく、確かな現実味のある意識に戻っていることに、まず気付く。本来あるべき不器用なものを身に纏う。ここは、たぶん普通の現実だ。
戻ってきた。
だが、僕の目はどうしても見えない。瞼を開こうと踏張ってみるのだけれども、うまく力が入らない。瞼の開閉を司る筋肉に繋がる神経が何処にあるのか、よく分からない。いろいろ試してみるが、どうもうまくいかない。
川のせせらぎが聞こえた。近くに川があるのだろう。すごく近くだ。耳元の隣でそれは聞こえる。
匂いはたくさん混じっている。土の匂い。汚濁したゴミの匂い。酸味のきつい血の匂い。これもすぐ近くにあるものだ。僕の身体に付いているのかもしれない。痛みがないところを見ると、何かの血が僕に付いているのだろう。
感触はあまりいいものじゃない。全身が粘着力のある液体で濡れていて、体温を奪っている。熱が肌から空気中へ移行しているのがよく分かる。
ざらっとした何かが僕の背中の辺りを触れた。得体の知れない何かだ。とっさに僕は逃れようと身を引くのだが、動かない。全身が痙攣したかのように震えるばかりだ。瞼だけでなく、僕の身体の全神経が繋がり方を忘れている。ひとつひとつの細胞は生きているのにそれらは有機的に作用していない。
またざらっとしたものが背中に触れた。今度は数回、頭や下半身の辺りを生温い感触で通り過ぎていく。瞼の上も。僕は必死に耐えた。
もう一度、瞼を開いてみる。ゆっくりと、力強く、徐々に慣らすように。まず薄目から。眼球に粘着した液体が粘り付いていて気持ちが悪いが、我慢して全開に向かう。やがて、睫が上下に別れた。
黄色い太陽が眩しい。いつぶりかの自然光だ。視界が真っ白になる。やがて、慣れてくるとスクリーンははっきりしてくる。
象?いや、象のような大きさの雑種の猫だ。髭もあるし、瞳孔もあるし、爪もある。象みたいに馬鹿でかい雑種の猫が僕の身体のすぐ傍に寝転がっている。猫は赤い舌を出し、僕の額を舐めた。さっきと同じざらっとした感触。僕は恐怖のあまり、身体中の体毛がいきり立った。僕はもがいた。逃げようと必死でもがいた。でも身体は瞼のようにはうまく動いてくれなかった。猫は僕の身体を好きなように舐め回していた。
心臓の辺りから熱いものが込み上げてきた。徐々に高まり、喉仏で集まった。僕の恐怖心は異常なまでの勢いで水銀柱を上った。あがき、高まり、あがき、高まり、全てが最高潮に達すると、僕はあらんかぎりの力を振り絞って叫んだ。
?
僕は耳を疑った。耳に入ってきたものを信じることが出来なかった。張り詰めていた力が抜け、茫然とした。今、僕が聞いた音の意味することを理解するのは簡単だ。だが、受け入れることは至難だ。
かぼそい波長が鼓膜の周囲で震え、輪唱している。
恐る恐る、もう一度声を出してみた。
みゃう。
どうやら、それが僕の新しい声のようだった。
<了>